【四字熟語の処世術】君子不器

 Date:2012年08月27日15時25分 
 Category:文学・語学 
 SubCategory:四字熟語の処世術 
 Area:指定なし 
 Writer:遠道重任
「君子不器」(くんしはうつわならず)




高校時代、漢文の授業で習った記憶がある言葉です。当時はその意味がどうしてもわからず、なぜ立派な君子が器ではないのかと首を傾げたのを覚えています。

立派な人は大きな器を備えた人だと普通は考えがちです。もちろん、その通りだと思います。しかし、器にはその器にあったものしか入れることができません。大きな器であれば、確かにたくさんのものを容れることができますが、それにも限界があります。そこで君子は器ならずと、無限の大きさを秘めた真の器を備えた人であることを教えられたのがこの言葉です。

私たちは往々にして自分が綺麗だと思うものは受け入れても、汚いと思うものは受け入れることができません。しかし、自分が綺麗だとか汚いとか思うものが本当に正しいのかどうかは、実は分からないのです。汚いと思ったものが、本当は綺麗なものかもしれないし、綺麗だと思ったものが本当は汚いものなのかもしれないのです。

自分の判断が必ずしも正しいかどうかはわからないという、そういう一歩も二歩も下がった自分を通して、清濁を併せ受け容れる心の広さが必要だと、この言葉は教えてくれているのではないかと私は思います。

自我という器の外枠を取り払ってしまえば、どんなものでも受け入れることのできる心を持つことができます。この心こそ、機に臨み、変に応じて形を変えることのできる真の器なのだと思います。

ただ、この「我」を取り除くことが難しいのです。この「我」こそが明代の儒学者王陽明先生が言われた「心中の賊」(山中の賊は破るに易く、心中の賊は破るに難し)であり、自分自身の大敵であることを知って、日々の生活の中で、この大敵と向き合っていきたいものです。