「脚下照顧」(きゃっかしょうこ)

 Date:2012年05月16日10時01分 
 Category:文学・語学 
 SubCategory:四字熟語の処世術 
 Area:指定なし 
 Writer:遠道重任


先日、コンテンツ「住まい」に執筆中の三陽生人(みはるいくと)さんとお会いしたおり、話に出た「玄関」のことを早速原稿にされていましたが、本稿ではその時に話に上った同じく禅宗に関係する「脚下照顧」の四字熟語について考えてみたいと思います。

福岡市東区のとある禅堂入口に掲げられた「脚下照顧」の大きな木板。古びているだけに入門者を射すくめるようで、厳しい禅堂に入るに当り、まずは自分の足もと、つまり「自分自身」を顧みろ、ということなのでしょう。
 
人は他人の事はよく見えますが、自分の事となると全然と言っていいほど見えないものです。目が外を向いているだけに、自分を見つめることは難しい事なのです。

非行の低年齢化が叫ばれて随分と長い年月が経ちますが、こうした子供達に関わる人達には自分本位の人が多いように思います。子供は非行の原因を親や教師に求め、教師は家庭に、親は教師に求めています。自分を顧みようとする人を見ることはほとんどありません。

孔子様の高弟、曽子様は『日に三度吾が身を省みる』と言われました。四聖(孔子様の弟子である四人の聖人)のお一人とされる曽子様をして、自分自身を見つめることの難しさを説かれ、そのために一日に三度も自分自身を振り返る時間をもたれたと言うのです。

「省」という字は「目を少なくする」と書いています。目を軽く閉ざし自分の内面を見つめる姿です。座禅をする僧侶や仏像を見ると分かりますが、彼らは目を開けず、閉じず、まさに半眼にして下方に視線を落としています。そうすることで目を内側に向け、自分自身を見つめているのです。

足下とは自分自身であり、人としての基本であると思います。その基本に立ち返り、自分自身を省みるべきだと言うのが脚下照顧の意味するところなのでしょう。

ただ一つ、忘れてはならないことがあります。それは、脚下を照顧するにも「明かり」がいると言うことです。事の善し悪しを論ずるには、基準となるべき「ものさし」が必要です。善を行うにも、まず、何が善であるかを見極めなければなりません。

この「ものさし」こそが人としての基本であり、「良心」といってもいいのかも知れません。その「良心」という明かりに照らされてこそ、脚下を照顧できることを、まずは知ることが大切かと思います。