【街景寸考】児童虐待のこと

 Date:2019年03月20日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 子どもの頃、牛を飼っている級友の家に遊びに行ったときのこと。わたしが牛をじっと見ているそばで、級友が牛の背中を思いっきり拳で叩いたことがあった。わたしは驚きながら級友の顔を覗き込むと、級友は笑みを浮かべながら平然としていた。牛はといえば、やはり平然としたままだった。「強く叩いても、牛は平気なんだ」と驚いているわたしを和らげるように、級友はそう言ってから叩いたところをさすっていた。

 わたしはこのとき、牛や馬のような大きな動物と人間とでは、痛さに対する感覚に随分差があることを知ることができた。以降、わたしは田んぼで働かされている牛が飼い主から竹で叩かれているのを見ても、騎手が競走馬を鞭で懸命に叩く光景を見ても、「あれは合図のようなものなんだ」と思うようになった。痛ければ、普通よりも高い声で「モーッ」とか「ヒヒーン」と鳴いてもよいはずである。

 つまり、牛や馬が人間の言うことを聞くのは、叩かれて痛いからではなく、それが信頼に裏打ちされた合図だからというふうに理解できる。飼い犬が飼い主の言うことを聞くようになるのも、叩いたり抑圧したりした結果ではなく、常に愛情をもって接し、言うことを聞いたときは餌をやったりして誉めてきたからだろう。

 このことは人間の子どもの場合でも同じである。親たちの中には、自分の子どもを牛や馬と同じように叩けば言うことを聞くようになると勘違いしている者もいる。確かにそうとも言えなくはないが、親にとって都合のよい子どもにしようとしているだけのことである。躾には愛情が必要であり、信頼関係が土台とならなければならない。ひいては、こうした躾をすることで子どもの心を磨いていくことができる。

 もちろん、親も生身の人間である。子どもが悪さや粗相を繰り返せば、堪忍袋の緒が切れて手を上げてしまうこともある。この場合でも、激怒し自分を見失うようであれば、それは躾にはならずただの暴力でしかない。ただ、誤解を恐れずに言えば、感情的になってはいても塩梅(加減)が施された体罰のすべてまで否定すべきではない。逆に、そこまで否定する社会は原理主義的な不気味な怖さがあるとは言えないか。 

 近年、子どもの虐待が急増している。親が自分の子どもに暴力を振るうことは昔からあったが、「急増」という異常な現象の裏に何か構造的な要因があるように思う。その要因の一つに、貧困化、孤立化する若年世帯が増え、そこで生きる親たちの肉体的、精神的に追い詰められている状況が挙げられるのではないか。この中には、若年夫婦の離婚や子連れ再婚、望まない妊娠、母子家庭の同居人等が関係した事案が目立つ。

 行政の対応や虐待をする親たちを問題視するだけではなく、若年世帯と気軽に声をかけ合う近隣社会の再生が喫緊の課題になっているように思う。