【街景寸考】余命を勘定するとき

 Date:2019年04月03日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 最近、自分の余命を意識することが多くなった。孫娘たちが高校生になる頃まで生きていることができるのだろうかとか、自分と飼い猫はどっちが長生きするのだろうかというふうに。歯周病のせいで歯が抜けたときも、費用が高くなるインプラントではなく、安く治療ができるブリッジを選択したときも、自分の余命を勘定してのことだった。

 野球のスパイクを買うときも同じことを考えた。もっともスパイクを買う場合は、平均寿命ではなく健康寿命を考慮しなければならなかった。いくら長生きをしても身体が弱って野球ができなくなれば、その時点でスパイクを履くことができなくなるからだ。

 厚生労働省が公表した男性の健康寿命の平均は72歳である。わたしの場合、この歳を前提に考えると、使い古してきたスパイクを履き続けた方が経済的であるのは明らかだ。しかし、毎日足腰を鍛えて健康寿命を2、3年伸ばすことができれば、スパイクを買っても費用対効果を見込むことは可能だ。わたしは覚悟を決め、後者を選択することにした。

 この悩ましい心情をスポーツ店で吐露したら、店主は「同じような悩みで来られる年配客の方が他にもいますよ」と言ってわたしの気分を和ませた。店主のこのときの心遣いは嬉しかったが、この後が良くなかった。わたしがスパイクを試し履きしていたら、足のサイズが大きくなっていることに気がつき、そのことを店主に言うと、「歳を取って体重が増えると、その重みで足の裏が広がるんですよ」と身も蓋もないことを言いやがったのだ。

 2年前、整形外科医院の老医師から「手術をしなくて大丈夫ですよ」と告げられたときも、自分の余命を真剣に考えさせられた。その手術というのは、4年前に大学病院で若い医師から頸部脊柱管狭窄症だと診断され、「これから段々痺れが進み、先では頸部を手術することになります」と言われたときの手術のことである。

 この診断を告げられたとき、いずれは頸部の手術をしなければならないんだと覚悟していたので、老医師から「手術はしなくて大丈夫ですよ」と言われたときは嬉しくてならなかった。が、その嬉しさは直ぐに萎えた。なぜならこの言葉を「死ぬまでの間は何とか不自由なく過ごすことはできますよ」という意味にも解釈できたからだ。だとしたら、「死ぬまで」とは何年先のことなのかと心配になったのである。

 要するに、若い医師は大学病院の営業利益を優先する処方を勧めようとしたのであり、老医師はわたしが死ぬ間際まで、これまで何の効果も実感できない怪しい電気仕掛けの治療を続けていくつもりなのだ。わたしは、喉を切開して行う怖い手術をただ待っている身よりも、痛くもかゆくもない電気治療の方を躊躇なく選んだ。

 ともあれ、あまり長生きすることができても、麻痺の症状が進んで辛い終末の日々を送るのだけは御免蒙りたい。できれば亡き母のように、健康寿命までが余命であってほしい。