【街景寸考】入学式の日のこと

 Date:2019年04月24日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 桜の季節が来るたびに、小学校に入学した日のことが浮かんでくる。とはいえ、もう60数年前のことなので、いずれもおぼろげな記憶ばかりである。その日の朝、わたしは学生服の上下に学帽を被り、黒のズックを履き、白いハンカチを折ったものを名札にしてピンで胸につけ、祖母と一緒に自宅を出た。

 小学校は自宅から歩いて15分ほどの高台にあった。途中、辺り一帯に炭鉱長屋が建ち並び、それらを見下ろすように真っ黒なボタ山が聳え立っていた。ボタ山は、いつも頂上付近の数か所から煙を燻らせていた。その情景は子どものわたしでさえ、いかにも炭鉱町という地域を象徴する存在のように見えた。

 小学校の近くまで来ると、正門辺りは桜の花で包まれていた。正門を通って直ぐ左手に宿直室を兼ねた作業場があり、その奥まった薄暗いところに猿がいるのが目に入った。猿は短い鎖で繋がれ、せわしなく動き回っていた。学校に猿がいるという珍しさもあり、わたしは猿のそばまで行き、何人かの子どもたちと一緒に見入っていた。

 そこから後の記憶は途切れ、次に浮かんでくる情景は新入生で騒がしい教室である。教室に座っているわたしは、動揺も緊張もしていなかった。かといって、初めて見る担任の先生のことや、近くに座っている同級生をじっと観察する余裕があったわけでもない。ただ目の前の情景が現実のこととしては認識しきれず、どこかボーッと遠くを見ているような心地でいたように思う。

 それでも、はっきりと浮かんでくる記憶もある。一つは、教室の後ろの方で他の保護者に混じって立っている祖母と目が合うたびに、祖母は口をヘの字に曲げてわたしを睨み返していた情景だ。ちゃんと前を向いていろ」という合図だった。

 もう一つは、配られたわら半紙に同級生たちが一斉に自分の名前を書き始めたときに、わたしだけが書けずに、ただうろたえている情景である。それは抜き打ちに行われたテストのようなものだった。幼稚園の頃から、わたしは字を書かされたり、足し算をさせられたりするのが大嫌いだった。その報いを入学式当日に早速受けたことになる。

 近年は以上のようなわたしの思い出だけではなく、父親として自分の子どもたちの入学式に出席したときの情景も想い浮かべるようになった。そして今、わたしは毎年のように9人の孫娘たちの誰かの入学式を迎えるという歳になった。時の移ろいを感じざるを得ない。

 近くの公園ではソメイヨシノがすでに散り、今は八重桜のような種が咲き残るだけになった。近づいて見ると「カンザン」という名が表示してあった。