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【街景寸考】不可解なこと
Date:2020年01月15日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
同居する猫たちとときどき視線を合わせることがある。視線が合ったついでに、遊び心から睨めっこのようにすることもある。飼い主から睨まれているのだから、猫が恐縮して視線を逸らすかと思いきや、逸らさないことが多い。平然とわたしを見続けている。
薄目で遠くを見ているような表情をしているときは、何となく気品に溢れているように思えたり、上から目線でわたしを見下しているように思えたりすることもある。
飼い主の面目を保とうとむきになって目を凝らし、威圧するような顔をして猫を見返してみるが、何の変化もない。というより、無表情な顔なのに段々意志的なものが感じられてきて、猫の世界に引きずり込まれそうな気分になることがある。
生後10カ月になる孫の顔を上から覗き込むこともある。視線を逸らそうとしないのは孫も猫と同じだが、猫と見合っているときに生じる心の揺れのようなものはまったくない。というより、濁りのない透きとおった孫の瞳に心地良く吸い込まれていく気分になる。孫の方も好奇に満ちたような丸い瞳をしながら、わたしを見続けてくれるのである。
酒の席で仲間と向かい合っているときは、猫とも孫とも違う感覚に陥ることがある。ばか話が盛り上がっているときは何のことはないが、話が途切れて笑い声が止まったときに妙な感覚に陥る。何となく気まずくなり、それが尾を引くと何となく落ち着かなくなってくる。次の話題が直ぐに出てくればよいが、そうでないときは相手の目の前で当惑顔を晒してしまうのではないかという戸惑いを覚えてしまう。
この奇妙な感覚はこれで収まらない。更に相手の顔を見続けていると、相手の目や鼻や口などの顔のパーツが揺らいできて、まるで別人のように、或は他の生き物のように見えてくることがある。そして相手の存在そのものが漠としたものになり、相手との関係性までもが懐疑的に思えてしまうようになることもある。
この不可解な感覚のことを思うとき、学生時代に読んだ「死霊」(埴谷雄高著)という小説が頭に浮かんでくる。主人公・三輪与志という青年が、「鏡に映っている自分を見詰めれば見詰めるほど、自分という存在が消えて行き、そこにまったく別の何者かが現れてくる」と語る下りのところだ。この三輪与志の感覚とわたしの不可解な感覚とが、どこか似ているように思えるのだ。
その昔、「我思う、ゆえに我在り」と唱えたのは哲学者デカルトだが、デカルトはわたしが抱くこの不可解な感覚をどう説明するのだろうかと考えることがある。むしろわたしの場合は、「我思えば思うほど、我がなくなってしまう」という思いに至ってしまう。
「自分とは何か」「人間とは何か」を考えることにどれほど意味があるのか分からないが、たまに考えることで自分のどこかをリセットするような心持ちになる。