【街景寸考】プロの意地を見せろ

 Date:2020年03月11日11時18分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 2年前、歌手の沢田研二が公演の開始直前に中止をしたことがあった。理由は、観客9千人の予定と言われていたのが実際には7千人だったからだ。会場前ではこの思いがけないドタキャンに怒りを現わすファンも少なくなかったそうだが、当然である。

 この話を知ったとき、わたしは本人に「何様のつもりだ!」と大声で怒鳴りつけてやりたい気持ちになった。たとえ観客が1人であったとしても、その前で一所懸命に歌うのがプロだと思ったからだ。後日、「客席がスカスカの状態でやるのは酷なこと。僕にも意地がある」というコメントが報じられていたらしいが、お門違いも甚だしい。

 当日は遠方から泊りがけできたファンもいたはずであり、旅費やチケット代のためにアルバイトをしながらお金を貯めて来たファンもいたはずである。プロとして「僕にも意地がある」というその「意地」の向け方がまるで逆である。こうした行動は、著しく自己中心的であり、思い上がりも甚だしいと言わざるを得ない。

 落語の世界を扱ったテレビや漫画雑誌などで、ときどき描かれている場面がある。真打を目指して修行をする弟子が、前座をやらされている場面である。前座が行われているときの客の入りはまばらであることが多く、客席が畳敷きだった時代には客が寝転んで聞いていたり、弁当を囲んで食べていたりする光景も珍しくなかったようだ。

 前座を務める弟子らは、自分を明らかに軽んじている客を前にしながら、「そのうち客を笑わせ、唸らせる噺家になってみせる」と自分自身を鼓舞していたはずである。古希を迎えた沢田氏にも、前座をする弟子のような初志と謙虚さを忘れずにいてほしかった。

 現在、新型コロナ感染の影響により、大相撲春場所が無観客で開催されている。テレビで初日の様子を観たときは、やはり違和感があった。喚声も声援もない土俵の上で力士たちは調子が狂い、心細ささえ覚えたのではなかったか。いつもとはまるで異なる雰囲気の中で、力士たちがたじろぐことなく、15日間唸るような相撲を取ってもらいたいと願う。

 もっとも、行司の軍配が返されれば1対1での闘いになるので、仕切のときに生じた違和感や不安感は瞬時に消え、いつも通りの気合でぶつかることができるのかもしれない。それに無観客とは言え、テレビ放映は行われているので気を抜くようなことはできまい。

 一方、春の選抜高校野球大会も無観客試合を前提に準備を進めているという。実施の是非についてはともかく、観客や応援団のいない球場で実施することになってもわたしは大して心配をしていない。球児たちは、たとえテレビ中継がなくても全力プレイを見せてくれるという確信があるからだ。

 なぜなら、球児たち高校生は「今」を全力で生きることができる生き物だからである。

 ともあれ、国民が一致団結して新型コロナと闘い、1日も早い終息宣言に漕ぎ着けたい。