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Date:2020年07月22日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
男に生まれたというだけで、幼少期から青年期にかけて親や教師等から「男は男らしく」といった類の言葉を折に触れかけられてきた。今にして思うと、言葉の言い回しは異なっていても芯が強く、潔く、包容力があり、社会の役に立つ人間になれというような言葉で括ることができる。
「男は男らしく」とはっぱをかけられるたびに、そうあらねばと思ってはみるものの、大抵は数分も経たないうちに忘れていた。男らしさというものを、日常の中でどういうふうに実践していけばよいのか分からなかったということもある。真面目に「男らしく」を考えても、映画の中の高倉健の姿しか浮かんでこなかった。
銀幕の健さんはわたしにとって「男らしさ」の見本だった。任侠映画だけでなく「遥かなる山の呼び声」でも「幸福の黄色いハンカチ」でも、健さんはいつも誠実で義理人情に厚く、寡黙で何よりも喧嘩が強かった。健さんの映画を観た後のわたしは、しばらくは身も心も顔の表情までも健さんになり切っていた。映画館を出て外の眩しさに目を細める自分が、渋い健さんの所作と重なっているように思え、一人悦に入っていた。
健さんへの憧れとは別に、大学生の頃から男性が「男らしくなれ」と喝を入れられることに違和感を覚えるようになった。この言葉の中に「人間として賢くあれ」という意味が大半含まれていることを思えば、女性にも同じような期待をすべきだと思うようになってきたからだ。女性を半人前に扱う因習への反発心からくるものだった。
ここで言う因習とは、長く続いてきた男性優位の社会の抑圧や世間の慣習・風潮などで形成されてきた「女らしさ」のことである。こうした女性像の形成は、哲学者ボーボワール女史が著書『第二の性』で述べた「人は女に生まれない、女になるのだ」と同質のものだ。
「らしさ」は「男らしさ」であれ「女らしさ」であれ、個々の自由意志に基づいて形成されるものであるべきだ。「男らしさ」の「らしさ」も、多分に社会の慣習・風潮によって形成されてきたところがある。こういう「男らしさ」に居心地の悪さを覚える男性も少なくないはずだ。男性でも肉体的に脆弱な者もいれば、小心者もいる。度胸はないが愛嬌のある者もいる。細やかな神経を具えている者もいる。
思うに、「男らしさ」も「女らしさ」も世間の慣習や風潮からではなく、「自分らしさ」によって形成されたものであるというのなら納得できる。「自分らしさ」とは自分自身の考えを重んじ、自分の言葉で話したり行動ができたりする状態のことだ。「男らしさ」「女らしさ」を論じるには、この前提に立って論じなければならないと思う。
また、「自分らしさ」に関してこうも思うことがある。温泉や銭湯に浸かっているときに一切の雑念を離れて心まで丸裸になっている自分に気づくことがあるが、このようなときにもう一人の自分らしさを垣間見る思いがする。