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Date:2020年07月29日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
テレビがまだ一般に普及していなかった時代、各家庭では眠りに就くまでの夜の時間をどのように過ごしていたのだろうかと思うことがある。テレビやラジオだけでなくスマホやパソコンなどの普及により、家にいても暇をもて余すことがない今の人々からはとても想像できないに違いない。
ところが、わたしが幼少時代の我が家では、テレビがなかったからといって家族が暇をもてあましているような夜を過ごしていたかというと、そうした記憶はない。ラジオがあったので、それで十分気を紛らわせることができていた。歌謡曲や落語・漫才・講談などの放送があるときは、家族みんなで聞き入っていた光景が今も浮かんでくる。
高校時代、わたしはテレビもラジオもない貸間で祖母と二人で暮らしていたことがあった。祖母とわたしは必要なとき以外ほとんど会話をすることはなかったが、日々を退屈に過ごしていたという記憶はやはりない。静かだったがいつも優しい空気に包まれている中で、淡々とそれぞれの時間を過ごしていたように思う。
テレビが一般の家庭に普及するようになった昭和30年代から、どこの家庭も茶の間に置かれたテレビの前に集まって夜の団欒を過ごすようになった。家族の団欒は、テレビなしでは成り立たないと言ってよいくらいの様相を呈するようになった。それまで娯楽の王様と呼ばれていた映画に代って、自宅に居ながらプロレスやドラマなどを観ることができるという大変化に、大衆はこの上もなく贅沢な喜びを覚えていたはずである。
今、スマホやパソコン等の情報機器が世に溢れ、老若男女が膨大な情報に向かって検索したりゲームアプリを楽しんだりする時代になった。ネット上でいつでも誰とでもつながることができるようにもなった。そして、家族や近所の人々と一緒にいる時間よりも、これらに割く時間の方が遥かに多くなってきたのも事実だ。
ところが情報機器の発達により、人間がより賢くなり、人間同士の繋がりがより濃く広くなってきているのかと思いきや、そうではない部分が多く見える。むしろ、精神の安定を損ね、人間関係や人情が薄れつつあるようにさえ思えることがある。
子どもたちがまだ幼かった頃、カミさんはテレビを観ないようにしようと何度も提案していたのを想い出す。家庭の団欒をテレビに依存することより、子どもたちの精神的な成長や家族のつながりを優先させたかったのだ。テレビっ子世代として大人になってからもテレビから離れられなかったわたしは、この提案を無視し続けてきた。
今、世間では家族が個々にスマホを操り、お互いの顔を見合わせる時間は明らかに少なくなってきたように思う。こうした光景は見様によっては滑稽であり、また不気味でもある。そして、昨今はこの不気味さが更に強まっているように感じて仕方がない。