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【街景寸考】昭和24年に生まれて
Date:2020年09月02日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
昭和24年にわたしは生まれた。終戦からわずか4年後のことである。わずか4年後に自分が生まれてきたことを意識するようになったのは、50代半ばを過ぎた辺りからだ。以降、ある種の感慨を持って、生まれた年の頃を回顧するようになった。
若い時分は、当時を回顧するようなことはほとんどなかった。先の戦争のことや混沌とした終戦直後のことは「自分が生まれる前のことであり、自分とは無縁の出来事」だと思っていたからだ。自分とは無縁ではなかったのだと思うようになったのは、人生を振り返るような齢に自分が近づいてきたことを意識し始めた頃からだ。
回顧するたびに、自分の生まれた昭和24年という年は未だほとんどの国民が悲惨な戦争体験を生々しく記憶していた時期であり、復興が進んでいるとは言え食糧難や住宅難、就職難の問題を色濃く抱えた混乱期であったということに思いを馳せるようになった。
幼少だった自分の近くにも、戦地で愛する夫や息子を亡くして悲しみに暮れる人々がいて、更にはアジア諸国で残虐な加害行為に加担していたかもしれない元復員兵だった人々も普通に行き交っていたはずだ。その現実を、複雑な思いで回顧するようになった。
自宅のあった炭住長屋の周辺部にも、戦争があったことを伝える痕跡が幾つも残っていた。防空壕跡である。5、6歳の頃、大きな横穴の前を通るたびに、何のための穴なのか不思議に思っていた記憶がある。当時、それが空襲から命を守るためのものだったと聞かされても、日本が戦争をしたという事実をはるか遠くにしか感じることができなかった。
わたしに戦争があったのだという現実感を最も抱かせたのは、地元の祭りや縁日のたびに目にした傷痍軍人の姿だった。戦禍で体の一部を失った彼らは、白の兵隊帽に白装束を身にまとってハーモニカやアコーディオンで軍歌を奏でながら通行人からお金を貰っていた。
その光景は同情すべきものだと子どもの目には映っていたが、なぜか彼らを見る大人たちの目線は妙に冷たかったということをはっきり記憶している。
わたし自身、満州からの引揚げ後に生まれた子どもなので、先の戦争とは無縁どころか深く関わりのある人間の一人であることを改めて思う。日本が戦争に負けていなければ、わたしは満州でその後の人生を送っていたかもしれないのだ。引揚げの間際に、栄養失調で1歳だった姉が病死したこともわたしが戦争と関わりがある出来事でもある。
人生を回顧するようになってからは、先の大戦を心から憎むようになってきた。毎年終戦記念日の前後にわたり放映される、悲惨な戦場の映像や戦争体験者の証言を聞くたびに「日本はなぜあんな愚かな戦争をしてしまったのか」と怒りが込み上げてくるようになった。無謀な戦争を強行した、当時の権力や軍部に対しての怒りである。
高校時代、国語の男性教師が授業中に「お前たちを戦地に行かせるようなことは二度とさせたくない」と涙を抑えながら語っていた思いも、人生を回顧するようになってから受けとめることができるようになった。