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【街景寸考】「個性って何」のこと
Date:2021年01月13日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
「個性化」という言葉を聞くようになったのは、昭和60年頃からだったと思う。多くの日本人がバブル経済に浮かれていた頃だ。経済が豊かになってくると企業は、物不足時代の多品種大量生産から、付加価値を伴う多品種少量生産へと舵を切るようになった。「個性化」は「多様化」と共に、この時代に販売される商品の宣伝文句として使われていた。
多品種少量生産というのは、金銭的に豊かになった顧客のニーズに対応して、多様な商品を少量ずつ生産して他商品との差別化を図ろうとする生産方式だ。こうした商品市場の中で消費者は、それぞれの意識や価値観、感性に基づいて購買行動をとるようになった。「個性化」という言葉に煽られた消費行動だと言ってもいい。
「個性化」とは別に、「個性」という言葉が使われるようになったのはずっと前だったように思う。しばしば会話の中で、「彼は個性が強い」「彼女は個性的だ」「自分の個性を大切に」というような使われ方をするのを聞いてきた。聞いてはきたが、その言葉の意味するところを正確には分からないまま受け止めてきた。
その意味するところを強いて言うなら、「あの人は特徴のある性格だ」「あの人は我の強いところがある」「あの人は何となく持ち味がある」という使い方の中から理解したつもりになっていた。この理解が正しい解釈だったかどうかは自信ないが、それ以上に「個性」という言葉を深掘りしようと思ったことはない。それくらい「個性」という意味は、わたしにとって哲学的な言葉のように難しく思えてきた。
この「個性」という言葉を、文部科学省(当時の文部省)はいきなり教育現場に持ち込んできた。昭和60年の臨教審(臨時教育審議会)答申の中で、今後の教育改革の柱として「個性重視の原則」という言葉を掲げたのである。以降、文科省は「個性化」を国際化と合わせて教育改革の中心的な概念として取り扱ってきた。
この改革の背景には、それまで教育現場で行われていた画一的・硬直的・閉鎖的・非国際的な教育から脱皮し、教育の内容、方法、制度、政策を個性重視の原則に照らして見直すという考え方があった。言っている趣旨は分からないではないが、素人目からもこの改革を教育現場で運用していくのはかなり難しいのではないかと思い続けてきた。
「個性重視の教育」のことを学習指導要領の部分に「一人一人の着想や工夫を生かし、学習プロセスを多様化するもの」と表現しているが、むしろ「それぞれの生徒の持ち味を生かし、伸び伸びと学習できる教育」という簡単な言葉に置き換えれば、教師はこれを拠り所に改革の趣旨を実践しやすかったのではないかと思ってきた。
大人も同じである。自分が自分らしく個性を持った人間として生きて行こうと思えば、「伸び伸び」と生きていくよう心がけるといい。「それまでの自分」という鎧を脱ぐのは簡単ではないが、そう心がけることで「本当の自分」を段々表現できるようになってくる。
かく言うわたしも、後悔のないよう日々自分らしくあることを心がけたい。