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【街景寸考】「自由について」のこと
Date:2021年03月10日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
わたしたち日本の国民は、憲法によって国家権力から自由であることの権利を保障されている。従って、正当な理由もなしに警察官に拘束されることもなければ、理不尽に言論や表現などの自由を奪われたりすることはない。何かをしたいと思えば、他の人権を侵害しない限り何でもできるし、嫌だと思うことを強要されることもない。
一方、現在の香港やウィグル自治区、あるいは北朝鮮で起きているような政府の不当な弾圧により、言いたいことも、やりたいこともできない社会が現にあることも知っておく必要がある。人権弾圧が報じられるたびに、わたしは激しい憤りを覚えると同時に自由でいられることのありがたさを強く思う。
ところが、当たり前のように自由に浸り続けていると、呼吸をしているときの空気のように、そのありがた味をつい忘れがちになってしまう。忘れるのは、香港市民のように大規模なデモを連日行ってまで自由と民主主義を叫ぶ必要がない社会にいるからである。
自由についてこの程度の認識しか持っていないわたしだったが、先日あるТV番組を観たことで別の視点から自由について考えさせられた。NHKテレビの「日本一長く服役した男」と題したドキュメント番組だった。強盗殺人罪で61年間服役していた80代の受刑者が仮釈放になり、受け入れ先の老人介護施設での様子を撮った番組だ。
61年間も刑務所で不自由な暮らしを強いられていたのだから、さぞかし仮釈放後は自由を謳歌したい気持ちが強くあるはずだと思っていたら、そうではなかった。取材班が介護施設での居心地を老受刑者に尋ねたとき、「ここで自分は何をしたらよいのか分かりません。つらいだけです。刑務所に戻りたい」と、かすれた声を絞りながら訴えたのである。
この意外な言葉にわたしは驚かされた。高齢ゆえに弱気な心境から一時的に出た言葉のように思えたが、心の底から発せられた言葉であったので考え直した。規則漬けの刑務所の中で長年暮らしてきたことで、その生活が当たり前のようになり、いつしか不自由であることさえ感じない精神状態になってしまったのかと思う外なかった。
だから仮釈放により自由の身になることができても、ただ戸惑うことしかできなかったのだろう。加えて、新しい生活の軸や何かの目標を持つ意欲もなければ、暗闇に独り放り出されたような気分になってしまうことも理解できなくはなかった。
つまり、老受刑者にとっての刑務所は、何の考えも感情も持つことなく刑務官の命令どおりに動いていれば、ある意味「楽に過ごすことができる場所」として、拠り所のようになっていたのかもしれない。
この番組を観た後に、こうも考えた。自由であるにもかかわらず、「あれはできない、これもできない」「もう歳だから」などと自分で決めつけてしまうのは、内心にある刑務所(固定観念)の中で自らの自由を拘束しているようなものだということを。
自分に正直に、自分が思うとおりの自由な人生を歩んで行くには、その刑務所の扉を開け放たなければ大きな損失である。扉の鍵は自分の手の中にあるということも再認識できた。