【街景寸考】タクシー運転手のこと

 Date:2021年04月07日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 初めてタクシーに乗ったのは小学5年生のときだった。母とバスに乗るつもりでバス停にいたとき、たまたま通りかかったタクシーに突然母が手をあげたのである。母がタクシーを拾うところを見たのは、このときが初めてだった。

 それまではタクシーに乗るのは裕福な家庭の人か、何かの用事で余程急いでいる人なのだろうと思っていた。女手ひとつでわたしを育てている母が、まさかタクシーを拾うとは思ってもいなかったので大きな驚きだった。しかも手を挙げるのも堂々としていたので、息子のわたしも誇らしく思えた。わたしは喜び勇んで母に続いて乗り込んだ。

 行き先を告げるときの母の振る舞いも、いかにも手慣れていた。このとき、わたしはわたしの知らない母の部分に軽い嫉妬も同時に覚えていた。知らない部分とは、母の独身時代のことだ。旧満州の新京でタイピストとして働き、ソ連参戦までは華やかな生活を送っていたという話を母から聞いていたので、そのことを勝手に想像しての嫉妬だった。

 大人になったわたしは公用でタクシーに乗ることがあっても、私用で乗ることはほとんどなかった。公用で乗っていても、それまでの貧乏性が刷り込まれているせいか、座席に腰を下ろしていても落ち着かなかった。特に若い頃は分不相応だという後ろめたさがあったので、いつも車窓からの景色を漫然と見ることしかできなかった。

 それでも長年タクシーを利用していたら、単に移動手段として捉えていたのが、いつの頃からか運転手さんひとり一人の人柄にも注意が向くようになっていた。こうした変化はわたし自身が年齢を重ねてきたということもあるが、人柄を観察することの面白さを知るようになってきたことも一因にあるのは確かだ。

 タクシー運転手さんの人柄は当然ながら様々だ。客から近距離の場所を告げられると途端に不機嫌な顔をする運転手がいるかと思えば、行き先が近くても柔和な顔でハンドルを握り、下車する際に深々と頭を下げてくれる運転手もいる。気を遣って話しかけてくる運転手もいれば、終始無言の運転手もいる。無言でいる運転手に恐る恐る話しかけてみると、意外にも心地の良い言葉のやり取りができる場合もある。

 ルームミラーをチラ見しながら客の機嫌を探ろうとする運転手もいる。この手の運転手は会話を主導するようなことはないので、何のストレスも感じない。逆に、無遠慮に話かけてくる運転手がいる。この手の運転手は客の機嫌や気分などまるで気にすることなく、とにかく喋り続けてくる。最も気疲れするタイプである。

 タクシーの運転手は、客から訊かれたときだけ愛想よく答えてくれるのが一番だ。

 かつてわたしもタクシーの運転手をしてみたいと思ったことがあった。覗き趣味によるものだ。様々な客から、色々な話や体験談を聞くことができる面白さがあると思えたからだ。実際、以前乗ったことのあるタクシー運転手からは、人間がいかにおぞましい生き物であるかを、客同士の会話から窺い知ったという話を聞いたことがあった。

 結局、タクシー運転手をすることはなかったが、未だに覗き趣味は消えていない。