【街景寸考】再び黄太郎と次郎のこと

 Date:2021年04月21日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 久々に飼い猫(黄太郎と次郎)のことを書いてみたくなった。

 黄太郎が我が家に来てから3年を過ぎ、次郎は2年を過ぎた。弟分の次郎が来たとき一番気がかりだったのは、先輩格の黄太郎との相性だった。

 初めて2匹が対面した日、黄太郎は小さな声で鳴いている生後1カ月くらいの次郎を、不思議な様子で凝視していた。黄太郎のいることに気づいた次郎が何の躊躇もなく黄太郎に近寄って行くと、一回り大きな黄太郎が驚きながら後ずさりしていた光景を思い出す。

 2匹はすっかり仲の良い兄弟のようになった。ダイニングからリビングに、リビングからベランダにと朝から晩まで追っかけっこをしている。ときには親愛の情を込めて互いに体を舐め合っているかと思うと、次第に猫パンチの応酬へと変化し、それが高じて噛み合いになることもある。噛み合いといっても、甘噛みの限度を超えることはない。

 猫のことを「いくら可愛がっても、つかず離れずの関係を保つ動物」だと言われているのは知っていた。確かに、猫は犬に比べて気ままな性質があるように思えた。見ようによっては、お高くとまっているようにも思えた。それでも、尻尾を強く振ってベロベロと寄りついてくる犬よりは気楽でよいように思えた。

 ところが、黄太郎も次郎もわたしたち夫婦との距離がどんどん近くなり、寄り添っている時間が多くなってきた。特に次郎がそうなった。当初は寝ているカミさんの懐に潜り込んでくるたびに腕枕をしてやっていたが、今ではお互い阿吽(あうん)の呼吸で、どちらからともなく添い寝の型になって昼夜カミさんと寝ている。まるで人間の親子である。

 カミさんが次郎の視界から消えると、次郎はそのたびにリビングドアのところに何度も来てはガラス越しに目で探しながら鳴き叫ぶ。その様子は、人間の幼子が母親を探して泣き喚く光景と何ら変わらない。そんな次郎を後ろから声をかけてなだめるが、わたしに尻を向けたまま鳴き続けている。

 黄太郎は次郎と違って臆病な性分なので、わたしたちとの距離を縮めるのに時間を要した。信頼されるようになってからも随分と警戒心は解かれたが、臆病の根は残ったままだ。黄太郎は生まれて直ぐ野良猫になったので、もしかしたら人間から酷い扱いを受けてきたことがあったのかもしれないと推察している。

 その黄太郎も今では、朝、わたしが起きて2階から下りてくる足音を聞きつけると、リビングの入口で待ち構えるようになった。夜は夜で2階に上がろうとするわたしの気配に気づくと、一緒に上がろうとする意思表示をするようになった。その要求をたまに受け入れてやると、遠足に行くときの幼子のようにはしゃぎ、わたしの歩調に合わせて飛び跳ねるようにして上ってくる。

 これほど猫たちと近しくなるとは想像していなかった。飼っていた猫や犬が死んだとき、何日も泣き続けるという飼い主のことが理解できるようになった。部分的だが意思疎通のできる関係にもなった。そして、他人様に「家族です」と言えるようになった。