【街景寸考】面白くなかった授業のこと

 Date:2021年10月13日20時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 小学生の頃、勉強は嫌いだったが、学校に行くのは嫌ではなかった。

 勉強が嫌いになったのは、多分にわたしの性分に原因があったように思う。とにかく、授業中にじっと先生の話を聞いているのが苦痛でならなかった。授業が進むにつれ、その苦痛が段々マグマのように体中をうごめき出し、今にも破裂して自分が突飛な言動をしてしまうのではないかという不安な気持ちに陥っていた。

 後年、自分が勉強嫌いになったのは性分のせいだけでなく、味気ない授業のせいもあったのかもしれないと思えてきた。せめて先生がどの生徒にも寄り添い、優しく導いてくれていたら、少しは勉強に興味を持つことができたかもしれなかった。当時は一方的に先生が喋るだけの授業だったので、退屈になって外の景色を観たり寝たふりをしたりしていた。

 算数の授業中などに先生が生徒に質問することはあったが、勉強のできる生徒ばかりを指さし、デキの悪い生徒はほとんど指されることはなかった。指された生徒は自信ありげに正解を答え、先生は満足そうに笑みを浮かべながら「そうです」と言って褒めていた。

 こうした光景を見るたびに、自分が「ひいき」の対象外であることを悔み、妬み、悲しんだり、ひねくれたりした。ひねくれるたびに、授業や先生から一層心が離れた。

 それでも楽しい時間はあった。体育の時間と休み時間と給食だ。体育はどの種目も一番早く上手くなることができた。休み時間は廊下に出てはしゃぎ回り、授業中に溜まったストレスの発散ができた。給食のときは教室自体が地獄から天国の風景に変わったかのように思え、白衣を着た給食当番の生徒が天使のように輝いて見えていた。

 小中高生のときに経験していた一方的な詰め込み教育は、わたしが社会人になった頃から見直され、問題解決能力の育成や個性を伸ばす教育に重きをおく「ゆとり教育」へと舵が切られていた。校内暴力や家庭内暴力などの社会問題が、「詰め込み教育」の弊害として取り沙汰されるようになってきたからだ。

 「ゆとり教育」の導入により、授業時間が削減され、土曜日を休校にし、思考力・創造力や個性を伸ばすための総合学習が実施されるようになった。ところが今度はその理念が活かされず、学力の低下や、土曜日の塾通い、更には総合学習に掲げられた難解な学習課題に教師たちが立ち往生するという実態が指摘されるようになった。

 2020年3月、文科省はゆとり教育でもなく詰め込み教育でもない、「生きる力を育む教育」という、分かったようで分からない教育方針を打ち出した。AIやデジタルの普及に対応しながら「生きる力」を育むというのが理念のようだが、今後の動向に注視したい。

 江戸時代、身分や年齢を超えて子どもたちが共に学び合う「寺小屋」というのがあった。この寺小屋は単なる「教える場」としてではなく、道徳に基づいた「導く場」としての機能を有する「おおらかな学びの場」だったようである。

 わたしはこの寺小屋にこそ、教育の原点があるように思えてならない。