【街景寸考】再び「坑夫」を読んで

 Date:2021年12月29日09時51分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 夏目漱石の作品に「坑夫」という小説がある。「坑夫」を読んだのは学生時代だった。この小説を読んでみようと思ったのは、漱石のファンだったということもあるが、わたし自身が炭坑町の出身だったので「坑夫」という題名に特別の親しみを覚えたからだ。

 炭住長屋で育ったわたしは、大人になったら自分も坑夫になるものだと思っていたことがあった。そんな思いもあってか、ときどき炭坑の坑口近くまで遊びに行き、坑夫や石炭を運ぶトロッコが出入りする光景をじっと眺めていたことがあった。

 トロッコは坑口から直ぐのところで急勾配になっていたらしく、あっという間に見えなくなった。見えなくなるたびに、地の底で炭層に向かって汗と炭塵にまみれて懸命に掘削する坑夫たちの姿をわたしは想像していた。

 こういう光景を見てきた経験があったので、明治と昭和で時代が異なるとは言え、漱石が「坑夫」の中で坑夫をどのように描いているのか、あるいは「坑夫」をどういう筋書きで描いているのだろうかという点に興味を持ちながら読んだのを憶えている。

 あの頃から約50年経った。先日、たまたま本屋で「坑夫」を目にしたわたしは、今ではほとんどその中身を忘れてしまったということもあり、学生時代のときに抱いていた同じ理由から再び読み返してみようと思い立ったのである。

 「坑夫」のあらすじは、こうだ。やむをえない事情で家を出奔した家柄の良い19歳の青年が、闇雲に北へ向かって彷徨しているときにポン引きと出会う。そこで坑夫になることを勧められ、青年は考えもなく承諾してしまう。

 鉱山に来て、暗く、狭く、深く、紆余曲折した坑道を進みながら、青年は坑夫の仕事がいかに過酷であるかを思い知る。そして、出口が分からず息も絶え絶えに坑道を進んでいるとき、一人の坑夫と出会う。知性も教養もありそうなその坑夫から、「学問がある人間なら、日本の役に立つ仕事をするように」と諭され、東京に帰るという筋書きだ。

 わたしは坑夫が青年を諭している言葉の中で、あるくだりに目が留まった。「青年は情の時代。情の時代は失敗する」というところである。わたしはこの文脈を読み返しながら、一足飛びに若い頃の自分に立ち戻り、同時にその後の自分の人生をなぞっていた。

 そして、こう思った。わたしの場合の情の時代は青年期だけでは収まらず、今のこの齢になるまでずっと情の時代を過ごしてきていたのではないかと。職場関係や地域の人々との様々な人間関係にこなれて来たつもりだったが、未だ齢に相応しい分別のある人間として生きてきたとは思えなかったのである。

 要するに、経験から積み重ねてきた知識や分別を、上手く実践の場に応用することができないまま過ごしてきたように思ったのである。対象が人であっても物であっても、情的な部分に偏って反応し、知の部分が未熟なまま生きてきた人間のように思えた。

 そんなわたしが何とか生き抜けてきたのは、周りのお陰でしかない。運も良かった。