【街景寸考】「一抹の不安」のこと

 Date:2022年02月15日23時02分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 「えーと、あれたい、あれ!」 ある事物や人物のことをカミさんに伝えようとする際、「あれ」の名前を思い出せないという場面がめっきり増えてきた。大抵は仕方なく諦めるのだが、ときにはどうしても思い出さなくては気が済まない場合がある。

 そんなときには、カミさんに頼るしかない。その際、クイズのヒントを出すように、思い出せない名前の周辺情報を思いつくまま言うようにしている。例えば、「ほら、いつも眉間に皺寄せて煙草をくわえているあの俳優たい」というように。カミさんにはそれらの情報から色々と連想してもらい、そのうち「正解」に至ってもらうという次第である。

 それにしても昨今は自分でも心配になるほど、物や人の名前が出てこなくなった。子どもの頃から「おっちょこちょい」「せっかち」の性分のために物忘れが多かったが、今はこれに老化による物忘れが加わってきたからだ。

 理解力も落ちてきた。特に、画面の展開が早くて、筋立てが込み入ったテレビドラマには、付いて行けないようになってきた。これは明らかに性分ではなく、劣化の影響によるものだ。以前からもそうだったが、特に今後は「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のような、どこからでも筋が分かる勧善懲悪ものを楽に観ているのがよいのかもしれない。

 もっとも、自らこうした心配をしているうちは、まだボケかかっていないという自覚はある。自分のことを「おれはまだボケてなんかいない」と口を尖らして言うようになるのは、まだ先のことだと思う。その証拠と言っては何だが、数字の嫌いなわたしが未だ口座の暗証番号を忘れたことがない。

 幸いにもわたしの場合、自分がボケかかっているかどうかを週ごとに確認できる機会を持っている。小欄の原稿を出す前に、必ずカミさんに目を通してもらっているからだ。同じ原稿を二度出して気づかなかったり、文章がさまよっていたりすればカミさんからダメ出しされるので、その時点でボケかどうかが分かる手筈のようになっている。

 そう言えば、認知障害のことで気になっている人がいる。通院で世話になっている眼科医のことだ。この眼科医から「両目とも軽い白内障を患っていますよ」と診断されて7年が経った。直ぐに手術をする状態ではなかったらしく、この間、進行を遅らせる目薬を処方して
もらってきた。

 ところが昨年末、眼科医から「年明けにでも手術をしましょうかね」ときっぱりした調子で告げられたのである。直前の視力検査では両目ともこれまでどおりの1,0だったので、この宣告に多少違和感を覚えたが、わたしは気合いを込めながら了解の返事をした。

 年明けの1月下旬、目薬が切れたのでわたしは勇んで眼科に向かっていた。この日に手術の日取りが告げられるものと覚悟していたからだ。ところが何と、医師は「手術するほどにはまだ進んでいないですね」と、事もなげに言ったのである。

 この眼科医がわたしと同じくらいの齢だけに、一抹の不安を覚えたのは言うまでもない。