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【街景寸考】風呂敷のこと
Date:2023年02月01日10時07分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
風呂敷に小荷物を包んで持ち歩いている光景を、とんと見なくなった。昭和30年代までは、大人たちが風呂敷に手荷物を包んで外出している光景をよく見ていた。風呂敷は荷物の形にとらわれずに包むことができるので、万能袋のような役目を果たしていたのだ。
わたしの場合、まだ子どもだったので風呂敷に何かを包んで持ち歩いたという記憶はない。唯一、家人から風呂敷を持たされたのは、学期ごとの終業式の日だった。他の子どもも一斉に風呂敷を持参していたので、学校からの御達しによるものだったのだろう。
この日は通信簿を受け取るだけなので、ランドセルが不要であるのは理解できたが、なぜ風呂敷を持参しなければならなかったのか今でも分からない。
実際、薄っぺらな通信簿1枚を風呂敷で包もうとしても、空気を包むように頼りなく戸惑うだけだった。しっかり包もうとすれば通信簿が歪んでしまう心配があり、歪まないように軽く包もうとすれば下校の途中で落としてしまう心配があった。わたしはこの不条理に苛立ちながら、結局は通信簿をむき出しにして手で持って帰っていた。
普段は風呂敷とは縁のない子どもたちだったが、遊びで使うことがあった。正義の使者・月光仮面ごっこである。月光仮面とは当時の月刊漫画雑誌のヒーローのことだ。白いマントをなびかせて颯爽と登場する月光仮面に子どもたちは憧れ、風呂敷をマント代りにして飛び蹴りをしたり、走り回ったりしていた。
高度経済成長期になると様々な紙袋やビニール袋が出回るようになり、風呂敷は急速に影を潜めた。昨今では、せいぜい検事や弁護士が証拠品や書類を包んで裁判所に向かっている姿や、和服の女性が贈り物を包んでどこかに訪問している姿を見るくらいになった。
ところで、わたしには風呂敷のことで人様に言えない話がある。母の遺品を整理していたときのこと。タンスの奥から刺繍入りの苗字と家紋を白く染め抜いた濃紫の風呂敷が出てきたのである。カミさんは苗字と家紋を見ながら「ウチの家紋じゃないの」と、すかさず言ったのである。冗談とも本気ともつかぬ調子だったが、家紋に何の知識もないわたしは「分からん」と答えるしかなかった。
ところが後日、「分からん」ではすまない事態になった。墓を建てる段になって、霊園事務所から墓石に刻む家紋のことを訊かれたのである。我が家に家紋がないとは言えず、わたしは咄嗟に見栄を張って風呂敷に染められたものを代々の家紋のように告げたのである。
いざ墓を建てて気がついたことだが、何と霊園内に同じ家紋を刻んだ墓石が2つ、3つとあるではないか。更には、テレビの時代劇でも有名な戦国武将が同じ家紋を掲げているではないか。わたしは段々平静ではいられなくなり、後悔の念に駆られるようにもなった。
以降、墓参りをするたびに、他所の家紋を無断借用しているような引け目を感じる心と、我が家伝来の家紋かもしれないという強気の心とが入り混じりながら合掌している。
もはや天国の母に聴くしかないという、開き直りの心境である。