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【街景寸考】孫に故人の片影を見る
Date:2024年01月25日14時04分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
わたしの場合、神仏の存在を素直に受け入れるような人間にはなれなかった。仏壇やお墓のことにしても、その辺りで故人がちょいと顔を覗かせているという雰囲気や気配も感じとることはできなかった。
幼い頃から神社や寺院に連れられて行ったときは、母や祖母の真似をして頭を垂れ、両手を合わせていたが、そうした作法に嘘くささを覚えていた。小中学生の頃になると、見ようによってはその光景が茶番に思えることもあった。
神仏や霊は目には見えない存在だと評する人々が大方だが、わたしは未だ見たことのない超常的な存在をどう考えても同調することも、信じることもできなかった。少なくとも薄暗くて居心地の悪そうな社や仏堂やお墓の中には、いるはずはないと思ってきた。
つまり、神仏などを信じるかどうかは、実際に見たことがあるかどうかという即物的な観点でしか捉えることができない性分だったと言っていい。こういう性分になったのは、わたしの思考力や想像力、更に言語力のどれもが乏しいものだったからだ。だから、深く掘り下げて考えることができないままにきた。
ところが後年、仏壇やお墓に故人の気配を感じないというわたしの感覚が、まんざら見当違いではなかったことを表明してくれるような歌声が聞こえてきた。秋川雅史氏の「千の風になって」である。
この歌の歌詞を一言で言えば、「わたしはお墓の中にはいません」「風になって大空を吹きわたっています」というものだ。この歌を初めて聞いたとき、わたしは「そうだ、これだ!」と心の中で叫んでいた。以降、わたしはこの歌のお陰で母や祖父母、叔父、従姉たち故人のことを、清々しい気持ちで偲ぶことができるようになった。更には、自分も死んだら「是非、風になってみたい」と思った。
そうかと言って仏壇やお墓の意義を軽視しているわけではない。その必要性は承知している。お盆などで家族が一所に集まって故人を供養する時間を共有することができるし、家族一同介していることで心が穏やかになり、家族の絆を再確認することもできる。
そう言えば先日、孫たちの顔を見ていて「なるほど」と思うことがあった。孫たちがわたしの息子や娘の顔に似ているのは当然だが、加えて故人になった母や祖父母や叔父の片影を孫たちの顔に見て取ることができたのだ。これも当然と言えば当然だが、この片影が血のつながりによることをあらためて気づかされた。
早い話、仏壇やお墓の前で故人の気配を感じることはないが、孫の顔の中に故人の気配をはっきりと感じとることができる。
この話を長男の家でしていたら、たまたま13歳の孫娘がそばにいたので、そちらに向かって真顔で手を合わせて拝んでみせたら、「キャッ!」と叫んだ。「わたしはまだ仏様じゃない!」というリアクションだった。