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Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
いじめによる小中高生の自殺が後を絶たない。これらの報道があるたびに怒りが込み上げる。この怒りは、いじめられたあげくの自殺に対してのことだけではない。これらの事案がどれも同じ経緯で扱われていることに対する怒りもある。
「同じ経緯」とは、こうだ。学校側の調査により「いじめが原因で自殺に至ったという確認はできなかった」という報告がなされ、この報告に納得できない自殺した生徒の保護者から第三者委員会の設置と再調査の要請があり、再調査の結果いじめによる自殺だったことが認定され、謝罪会見をするというお決まりのような経緯のことだ。
このお決まり事に対してわたしはいくつもの疑問を持っている。まずは学校側が行う調査のことだ。多くの自殺事案で第三者委員会の再調査によりいじめと自殺に因果関係があるという認定が繰り返されてきているにもかかわらず、こうした前例を踏まえることなくなぜ学校側は覆されるようなずさんな調査しかしないのだろうかという疑問である。
二つ目は、学校側の謝罪会見で謝罪する中身に対する疑問だ。若い命を守ってやることができなかったという謝罪ならば、強い後悔の念やずさんな調査に深い反省を述べるべきであり、更にはいじめによる自殺を繰り返さないための具体的な対策を示すべきはずなのに、そこまで言及している謝罪会見をわたしは知らない。
三つ目は、いじめた側の生徒の保護者がなぜメディアに出ないのかという疑問である。何らかの理由によりТVカメラを向けないのだろうが、せめてぼかした画面に声だけでも聞けるような放映をしてもらいたいと思うのはわたしだけではなかろう。謝罪しているのは学校関係者だけという光景にいつも怒っている。「謝るのは、ほかにいるではないか」と。
怒りの感情は別として、加害生徒の保護者から何某かの声を聞くことは、子どもの育て方や、その子どもや保護者の性格や人間性などを推測することができ、これらの情報からいじめ予防に繋がる貴重な材料を得ることができるかもしれないのだ。
以前、小欄で「いじめに対処療法はあっても、なくすことはできない」と書いた。人というのは異質なものや、自分より弱い者、劣っている者に対して差別をしたり排他的な行動をとったりする性質があり、これらがいじめの原因になっていると思うからだ。
ただ、いじめをなくすことができなくても、現場での取り組み次第では減らしていくことはできる。どこの国だったか、いじめをテーマにクラスの生徒だけで話し合いをさせている学校があることをТVで知った。大人は誰も参加しないという考えだ。大変良い方法だと思えた。教育上の様々な相乗効果を生み出す可能性がありそうだ。
「生徒だけの話し合い」と言えば、日本にも似た集まりがあった。旧会津藩が子弟を教育する目的で設けた子どもたちの組織だ。この組織の決まり事「什の掟」は現在でも知られている。今でも会津若松市だけでなく福島県の子どもたちも皆暗唱しているそうだ。
この掟の最後に「ならぬことはならぬものです」という一節がある。昨今、いじめを減らしていくための心の教育として一部の教育関係者で注目されているという。