【街景寸考】銭湯の帰り道

 Date:2013年06月05日09時30分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 子どものころは風呂が嫌いだった。風呂は暮らしていた炭住の長屋にはなかったので共同浴場まで行かなければならなかった。共同浴場とは、炭鉱で働く鉱夫やその家族のために造られた風呂場のことである。

 祖母はいつも遊んでいる最中の私を捕まえ、連行するようにして「女湯」へ連れて行った。風呂の中でも祖母は湯船の傍に私を動かない様に座らせ、無造作に頭からお湯をかけた。洗髪の次は濡れ手ぬぐいを絞って私の身体の裏表を磨き上げた。そして、「ほら・・、これ。ほら・・、これ」と、こする傍らから出てくる垢と汚れを目で指しながら祖母はそう言った。擦ったところの皮膚は真っ赤になり、ヒリヒリと痛くなった。湯に浸かるとその痛さが増した。後年、皮膚を強くこするのは肌に良くないということを知ったが、祖母はすでに天国に行っていた。

 祖母のしごきのような扱いはまだあった。それは湯船の中で肩まで私を浸からせて100まで数えなければならなかったことだ。風呂での最後の仕上げのときである。100まで数えないと湯船から出してもらえなかった。冬場になると、もっと深くお湯に浸かるよう祖母は私の両肩を押さえた。顔や頭のてっぺんまでがお湯で熱くなると、私は早口で数を数えようとした。すると祖母は必ずとがめるような目で、私を睨んだ。この時期、私が風呂嫌いになったのは間違いなく祖母のせいだ。

 嫌いだった風呂が好きになったのは学生時代になってからだ。銭湯の帰り道に覚えたあの爽快感を知ったからだ。貧乏学生が味わうことができた唯一の爽快感だった。貧乏人も金持ちも平等に扱われる爽快感が嬉しかった。200円程度のお金で至福のときを得られることが心からありがたいと思った。出席日数や単位が不足していることへの不安を忘れ、お金がないことや、お金がないために痔が痛くても肛門科に行くことができない辛さもどこかへ吹き飛んだ。また元気に生きて行こうという気になった。

 歳をとった今でも、気持ちを立て直したいときには風呂を活用することにしている。風呂は私にとって生活のバランスやリズムを保っていくための軸になっていると言ってもいい。いつ入るか、そのタイミングを計るのが大切である。

 祖母が亡くなる前、病院から一時帰宅したときに自宅の風呂に入れたことがあった。祖母にとってしばらく振りの風呂だった。肩まで湯に浸かったとき、「きゃー」と声を立て、「ううっ・・」と唸った。その声に私は驚いたが、心地良さから発したものだとわかり、自分のことのように嬉しかった。記憶に残る風呂の想い出である。