【街景寸考】「魔が差す」ということ

 Date:2016年09月21日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 「魔が差す」という言葉がある。「ふと邪念が起こり、判断や行動を誤ってしまうこと」である。人間であれば誰しも、犯罪という行為にまで及ばなくても、何回かは魔が差した経験があるように思う。
 
 この言葉には、自己の責任を回避するような意味が含まれている。自分の誤った判断や行動を、他人事のように捉えようとする姿勢が見えるからだ。悪いことをしたのは本当の自分ではなく、意識下から突然悪魔が現れてきて、自分を突き動かしたのだという解釈だ。

 万引き犯の弁明によく使われることでもある。「つい、魔が差してしまいました。万引きをする気持ちはなかったのに、気がついたら手が出ていました」という具合の弁明だ。詭弁に聞こえるので同情する気にはならないが、裁判では「計画性がなかった」という判断の根拠になり情状されているようなので、軽視はできない。

 自分も魔が差した経験は何度かある。道端などでお金を拾ったときなんかである。しかし、大抵は魔が差したところで留まってしまい、自分の懐に入れたことは未だにない。渋々ながら遺失物として近くの交番などに届けてきた。

 渋々なので、自分の中で正義が悪魔をやっつけたというわけではない。「もしかしたら誰かが見ていたかもしれない」「見ていた者から脅されるかもしれない」というような雑念が渦巻き、その雑念が悪魔をどこかよそへ押し遣ってしまうという感じである。

 先日行われた五輪の陸上女子5千m予選で、接触して転倒した米国とニュージーランドの選手同士が互いに助け合い、励ましながらゴールする姿が映し出され、まさに五輪精神そのものだとして世界中の人々から称えられていた。

 人生をかけて臨んだ五輪なので、一つでも良い順番を確保したいと思うのが人情だ。にもかかわらず彼女たちは、その気持ちを捨てて競争相手を助けるという行動に出た。この行動も意識下から突然動かされたという点では、「魔が差す」と同じである。無私の境地で判断したのではなく、突然無私になったのだ。

 15年前、韓国人留学生と日本人カメラマンが、新大久保駅でホームから転落した人を助けようとして、躊躇なく線路に飛び降り、2人とも亡くなるという事故があった。これも突然無私になるという意味では、同じであるように思う。こういう場合は、神が降りてきた」という言葉を使いたくなる。まだまだ人間、捨てたものではない。そう思えることが嬉しい。