【街景寸考】応援の心に変化

 Date:2016年11月30日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 少年時代、熱狂的なジャイアンツファンだった。ところが、金にものを言わせて他球団から4番バッターを次々と引き抜くようになってからは、気持ちが離れてしまった。以来、 応援したい球団がないまま20数年ほどを過ごしていた。

 数年前から、プロ野球の応援とは縁のない生活を続けているのがつまらないことに気づき、注目される選手や好きな監督がいる球団を応援してみようという気になった。そうするとスポーツニュースを見るのが待ち遠しくなり、楽しみが増えたようで嬉しくなった。

 そこまでは良かったが、以前のように力を込めた応援ができなくなっていることに気がついた。好きな球団を応援していても、形勢が危うくなるとチャンネルを切り替えてしまうのだ。悔しさに耐え切れずに切り替えてしまうのか、熱くなって応援をすることができなくなったからなのか、その辺のところは正直よく分からない。

 今度のリオ五輪のときもそうだった。卓球の愛ちゃんやサッカーの日本代表などを応援していても、明らかに形勢が悪くなってくるとチャンネルを切り替えた。最後まで応援するのが礼儀でもあるのに、自制することができなかった。

 そういう自分を探ってみて得た結論は、齢によるものかもしれないということだった。齢のせいで感情が希薄になってきたのだ、と。このことは他のことでも窺うことができた。例えば、テレビの時代劇「水戸黄門」を見ているときのことだ。以前なら「ご老公の御前である。頭が高い、控えおろう」の場面で必ずといっていいほど目を潤ませていたのに、最近はそうでもなくなった。落語や漫才を観ていても、バカ笑いをあまりしなくなった。

 チャンネルを切り替えた後、カミさんは咎めるようにわたしに言い放った。「それは齢のせいじゃなくて、勝者の論理か、ご都合主義で応援しているからだ」と。つまりチャンネルを切り替えるのは、齢とは無関係であり、むしろ性格によるものだと言いたかったようだ。

 わたしほど不器用なまでに弱者側に立ち、そのときの都合で考えを変えたりする嫌な人間ではないと自負していたので、この言葉に怒りを覚えた。確かに齢のせいだけでは説明できない部分はあるかもしれないが、かといってカミさんが指摘するような気持ちから出た行動ではないと断言していい(カミさんの前では断言できなかったが)。

 そういえば、愛ちゃんたちの結婚会見のときもチャンネルを切り替えていた。これはどういうことだったのか。