【街景寸考】極楽浄土のこと

 Date:2017年03月29日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 宗教とは距離をおいてきた。理由はよくわからない。神社に行けば二礼二拍一礼をし、葬式や法事のときは僧侶の真似をして合掌や礼拝をしているが、単に形式に従ってきたというだけである。「北枕にして寝るのはよくない」「夜に爪をきるのは良くない」というような宗教的な迷信に惑わされることがなく、気にしないふりもしてきた。

 実際、わざと北の方角を頭にして寝たり、爪も夜に平気で切ったりしてきた。ただ、なぜか「ミミズに小便をするとチンチンが腫れる」という迷信だけは、引っかかりがあった。一度も腫れたことがなかったが、これも単なる迷信だと確信するのに、高校生の頃まで時間を要した。

 極楽浄土のことについては、今でも半信半疑でいる。死んでみないと分からないからだ。極楽浄土が「仏がおさめる清浄な世界」という言葉にどこか魅かれる気持ちもあった。

 その極楽浄土を想像するとき、いつも花畑が広がっているところに蝶々が飛んでいるという風景しか浮かんでこない。今まで先人が描いてきた想像図に影響され、そこから脱することができないでいる。極楽浄土が本当にそういうところだとすれば、死んでから永遠に花や蝶ばかりを眺めていなければならず、気が滅入ってしまうだろうと不安に思ってきた。

 以前、極楽浄土のことを考えていて行き詰まったとき、「もしかしたら、この地球が極楽浄土なのではないか」との思いに至ったことがあった。確かに、地球のような美しい天体が他にあるとは思えない。そう思うと、この現世こそが極楽浄土かもしれないと思っても、おかしくはなかろう。

 その極楽浄土の姿を変え、今の現世を造り出してしまった諸悪の根源は、言うまでもなく人間たちをおいてほかにはない。人間たちが繰り返し行ってきた自然破壊や殺りくなどの愚行により、清浄だった世界が蝕まれてきたのだと言える。この進行を食い止め、極楽浄土の世界を取り戻していくのも、同じ人間でしかない。核戦争に至る前までに、だ。

 極楽浄土を取り戻していくためには、すべての人間が我欲を捨て、感謝の念で生きていくことぐらいしか思いつかない。この念で生きていくことができれば、怒り、恨み、憎しみ等の負の感情は胸の内で溶け、愚行に向かわなくなるに違いない。

 宗教心とは関係なく、そう思う。