【街景寸考】昔の自分と今の自分

 Date:2018年01月03日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 ときどき思うことがある。子どもの頃の自分と今の自分とでは、どこがどう違うのだろうかと。性格や感性、感情は、どう変化してきたのだろうかと。そんなことを思うのは、本質的に自分が変わったような気がしないときがあるからだ。

 物事に対する考え方は、当然ながら変わってきた。人生経験を積み重ねてきた過程で知識や知恵がつき、より合理的に、より論理的に、より客観的に物事を考えることができるようになった。

 性格の方はと言えば、子どもの頃から現実的な目標を持つようなことがなく、場当たり的、情緒的に行動する質だった。物事に正面から向かい合うことが苦手で、大抵はいい加減に対処してきた。短気だったということもある。そうかと思えば負けず嫌いの一面もあった。加えて、おっちょこちょいであり、落ち着きがなかった。

 こうした性格は、大人になった今もあまり変わっていないように思う。感性や感情の趣も、以前のままのような気がしている。

 強いて変わった点を言うなら、少しは相手の気持ちを察することができるようになり、謙虚なふりができるようになった。他人から迷惑を蒙っても、大概は許せるふりができるようになった。短気を何とか隠せるようになり、お袋のようによく笑うようにもなった。

 しかし、これらの変化は、経験による知識や知恵によって習得してきたものであり、性格が変化したものとは言えない。変化したように思われる部分は、事後における行動様式で覆っているだけのことだと言っていい。生来の気質は、マグマ溜まりの状態にあり、何かの拍子で表に噴き出してきてもおかしくない感じである。

 食べ物の好き嫌い、社会観、人物観、死生観など、関心の対象は結構変化してきた。ここれらは人生経験を積んでくれば、当然と言えば当然のことである。とろろ芋が好きになり、目が外向きだけでなく内向きにもなってきた。日本をはじめ諸外国の歴史や文化に関心を持つようになり、神社では家内安全、無病息災を祈願するようになった。

 関心の対象が変わらないのは、スペクタクル映画や戦争映画なんかである。野球も60年近く続け、現在進行形である。ソーセージや厚揚げ、茄子の味噌煮も相変わらず目がない。見知らぬ路地裏での散策や小冒険をするときは、今も胸をときめかせている。

 要するに、自分の性格についてだけ言えば、子どもの頃の性格の形は、その形を変えないまま大きくなっただけのようだ。着ぶくれをしてきただけだと、言ってもいい。