【街景寸考】戦争のこと

 Date:2018年03月22日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 先日、女流作家がトークショーで「戦争だけは絶対にしてはいけません」と、聴衆に何度も声高に叫んでいた。若い頃はこの言葉を聞くたびに、戦争を経験してきた人々の悲痛な叫びとして、素直に受け止めていた。ところがいつの頃からか、この言葉の受け止め方が自分の中で変化してきた。

 戦争で金儲けをする輩を除けば、戦争をしたいと思っている人々はまずいない。そのような人々に向かって戦争反対を叫んでみても、非難されることはないが、白いペンキの上に更に白いペンキを塗るようなもので、そこに何のエネルギーも、変化も生じることはないと言ったら言い過ぎか。

 ましてや「先制攻撃をされたとき、日本はどうすればよいのか」という問いに対しては、いくら戦争反対を叫んでいる人々でも、返答に行き詰まってしまうはずだ。戦争は誰だって嫌だが、先制攻撃をされたときは、国家としてこれを迎え撃たざるを得なくなる。こうした場合の戦争を、誰が否定できるのだろうかと考える。

 ところが大半の戦争は、お互いが「相手国からの先制攻撃による対抗措置」という理由により勃発している。たとえ先制攻撃を認める国があっても、国益の名のもとに「悪いのは相手国だ」として自国の正当性を強く主張するのが常である。どの国も恒久平和を願いながらも、今も地球上のあちこちで戦争が行われているのには、そういった背景がある。

 一旦戦争が始まれば、どちらの国の主張が正しいかのかどうかは重要な問題ではなくなるので始末に悪い。結果的に勝った国が領土を占領し、経済的利益を獲得してしまうことになる。個々人の争いなら裁判所に訴え、勝訴すればその正当性を権力によって実現することができるが、国家と国家の争いはそれができないからだ。

 国際司法裁判所というのがあるが、そこで是非の判断をすることはできても、権力が伴わないので正当性を実現することはできないのである。この場合の権力とは、暴力のことである。国連軍という暴力は、国家間の戦争を止めさせるにはあまりにも弱過ぎる。

 各国は戦争抑止の名目の下に、核兵器をはじめ様々な兵器を量産している。このパワーゲームは今後も果てしなく行われ、もはや人間の理性だけでは抑制できなくなっているのが現実だ。そして、人類の危機は日常の延長線上に突然やってくることになるのだろう。

 「人間はそこまで愚かではない」。この格言めいた言葉は、もはや通用しなくなってきた。