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【街景寸考】絆のこと
Date:2018年05月16日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
2011年の「今年の漢字」は「絆」だった。「今年の漢字」とは、毎年師走に京都の清水寺で書かれる大きな一文字のことだ。この年の3月11日に発生した東日本大震災の後、人々は家族や仲間など、身近でかけがえのない人との「絆」をあらためて深く考えさせられたことで、この字が選ばれたようだった。
災害などで突然家族を失うなど、経験したことのない不幸に見舞われたとき、誰しも茫然自失の状態に陥り、心の中にできた大きな空洞をどう埋めてよいか分からず、ただ苦しさにじっと耐え偲んでいるしかない状態になる。
茫然自失の中で過去における家族との平凡な日々が、走馬灯のように想い出されてくるに違いない。そして、それまでの何気ない日常の暮らしが、実は輝くような幸福な毎日だったということを、あらためて痛感するのではないか。
更に、家族と何気なく交わしていた「おはよう」や「おやすみなさい」という言葉が、いかに「安心」「愛情」「平穏」に裏打ちされていたものであるかを知り、切なくも悲しい感懐を覚えるに違いない。
東日本大震災を機に深まった「絆」は、家族の間だけのものではなく、被災者間の助け合いや、ボランティアの懸命な支援活動を通して築かれた関係のことも合せて使われていたように思う。「哀しみを知って、笑いを深くする」(被災者・津田公子氏作)という名句も、この「絆」の中から生まれてきたものだ。
ところが、この大災害後の非日常的な避難所生活が日常化してくると、それまで築かれていた強い「絆」も、徐々に緩くなり、「我」を優先する顔が部分的に出てくるようになる。例えば、当初は避難所で赤ちゃんが泣いていても、「お互いさま」の精神で寛容に受けとめられていたことも、徐々に迷惑顔をする人たちが増えてくるようになる、等々だ。
こうした変化を見て、それまでの「絆」は偽物だったと早計に判断すべきではない。非日常が日常化する中で表面化してくる世知辛さも人間の本性なら、突然の不幸に見舞われた非日常の中でお互い支え合い、助け合おうとする行動も人間の本性である。ここで築かれていた絆は、人間だけに与えられた性(さが)として素直に評価すべきである。
元々「絆」という言葉は、「しがらみ」とか「束縛」という意味だったようだ。そう言えば、「きずな」と「たづな(手綱)」は意味だけでなく語呂も似ている。考えてみると、「支え合い」と「しがらみ」という言葉は、表裏の関係にあると言えないこともない。