【街景寸考】「大人になりたかった」

 Date:2018年08月01日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 高2の頃、授業についていけないことを見極めたわたしは、横着を決め込んで授業中にうつ伏せになり、そのまま眠ってしまうことも多かった。それくらい体育と音楽の授業以外は、死ぬほど退屈でならなかった。

 ところが、自分の席が窓際になったときは、授業から解放された気分になることができた。いつも窓から外の風景を眺めることができたからだ。路上を行き交う人々を眺めているだけで、退屈することはなかった。お陰で退屈な授業を十分紛らわすことができた。

 あてもなくフラフラと歩く老婆、買い物かごを提げて早足に歩く主婦、頭を左右に振りながら自転車のペダルをゆっくりと漕いでいく中年のサラリーマン、パチンコ屋にでも向かっているような遊び人風の若い男、昼間からだらしなく並んで歩く若い男女。こうした人たちの性格や素性などを、勝手に思い巡らすのが楽しく、面白かった。

 そうした大人たちを眺めていると、自分の裁量で自由に時間やお金をつかうことのできる身分が羨ましく、更には学校の校則に縛られる立場ではないことも羨ましく思えた。まだ高校生の身分だったわたしはと言えば、一日のほとんどの時間を退屈な授業と辛い部活動で費やし、自由につかえるお金を持つこともできない身分であり、そんな自分が窮屈な檻の中に入れられた動物のように思えることもあった。

 そうした窮屈な気分になっているときは、一刻も早く大人になって時間もお金も自由につかいたいという思いと、大人になったときの自分を色々想像していた。どんな職業に就いているのだろうか、どんな女性と結婚しているのだろうか、どんな家を建てているのだろうかと。そんな想像をするだけで、幸せな気分に浸ることができた。

 ところが高3の2学期を迎えた頃から、大人になることへの不安な思いがもたげてくるようになった。自分のような劣等生が社会に出ても、果たして居場所があるのだろうかという不安である。更には、社会の習わしや儀礼に順応できそうにないことへの不安もあり、本音を隠してタテマエに生きる大人たちの処世術を真似ることへの不安もあった。たとえ真似ることができても、そういうふうに染まっていく自分を思うと、憂鬱な気分になった。

 大人になってからも、大人の世界に染まりたくなかったという思いを、多少なりとも持ち続けてきたせいか、世間から少し変わった人間のように思われることがあったように思う。それはともかく、隠居同然の身になった今、ようやく自由な時間を過ごせるようになり、僅かながらも自由に使えるお金もポケットの中にある。