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【街景寸考】Tさんの転職
Date:2018年08月29日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
Tさんとは自宅が近かったので、最初のうちは顔を合わせればお互いにあいさつをするという関係だった。その後、通勤時に同じ電車に乗り合わせるようになってからは、お互いの距離が縮まっていった。
Tさんはどちらかと言えば、あまり積極的に話をする質ではなかった。かといって口下手かといえばそうではなく、内気な性格というわけでもなかった。言葉は短めだが自分の思っていることはハキハキと言う人だった。その物言いだけで、Tさんがいかにも実直な人間であるという印象を抱くことができた。
そのTさんが、長年勤めていた電力会社を辞め、木こりになるという思いを吐露したのだった。同じ電車で通勤する仲間たちと居酒屋で飲んでいたときのことだ。組織の中で働くのが性に合っていないというのが主な理由のようだった。自分らしく生きて行くために悩み抜き、模索し続けたあげくの決断だったように思えた。
このときTさんはすでに50歳を少し過ぎていた。二人の娘さんがすでに社会人になっているとはいえ、収入が激減することになる木こりへの転職は、生死をかけるほどの大バクチだったはずだ。そして、Tさんの決断が決して一時的な感情によるものではないことが、わたしには確信できた。
その後Tさんは森林組合に足を運んだり、山仕事の知識を学んだりしながら、木こりになる準備を進めていた。ところがその道を諦めなければならない事態が起きた。柔道で痛めていた片方の膝が悪化し、木に登ることができなくなったのだ。
それでもTさんに悲壮感はなかった。「木こりは諦めたが、どこかの山間で土地と空き家を探して自給自足をしながら小さな民宿をやりたい」という別の道を選択したのである。その話を聞いたとき、わたしは木こりになることよりも困難なように思えた。
ところがそれから1年後、唐津の山間で小さな観光牧場を兼ねた民宿を開業したことを、Tさんはわたしに伝えてきた。開業から7年ほど経った今夏、漸くわたしはカミさんと息子たち家族を連れ、夫婦二人で営む民宿「どさんこミラファーム」に行き、遊んできた。
息子たち家族は2頭いる道産子に孫たちを乗せたり、近くを流れる冷たい小川ではしゃいだりした。昼食はラム肉のジンギスカン料理だった。食べ終わると孫たちは、いかにも開放的に改装されている古民家の中を走り回った。
帰り際、わたしたちに手を振りながら見送るTさん夫婦の笑顔には、これまで二人で苦労を乗り越えてきた自信のようなものが満ち溢れていた。Tさん、がんばれ!