【街景寸考】東京というところ

 Date:2018年09月19日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 学生時代は東京で過ごしたが、実のところ東京のことはほとんど知らない。暮らしていたアパートの周辺と、日雇い仕事で働いた都内の建築現場、後はせいぜい大学周辺の狭い範囲を行き来していただけだった。お金に余裕がなかったので、余計な行動は極力避けなければならなかった。たまに渋谷や原宿に出かけることはあったが、街並みの外観を観て回るだけのことだったので、何か面白いことに遭遇するという機会は皆無だった。

 東京のことは、主に流行歌を通してしか思い描くことができなかった。小学生の頃は島倉千代子の「東京だよ、おっかさん」の歌だった。上京してきた老母を娘が案内するという歌で、「ここが二重橋」「あれが九段坂」「観音さまです・・浅草よ」の歌詞から、戦後の復興が最も進んだ東京の華やかさが頭に浮かんできた。

 この時代の東京は、色々な流行歌から「花の都」というイメージを抱いていた。高度経済成長の極みにあった昭和40年代は「コモエスタ赤坂」「ラブユー東京」などのムード歌謡が多く流行し、わたしはこれらの歌を聴きながら、東京には男女の恋を予感させる夢舞台があるに違いないと確信したりしていた。

 経済成長の終焉を迎え、環境破壊などが次々と社会問題化していた昭和51年、クールファイブの「東京砂漠」が頻繁に商店街から聞こえていたのを記憶している。「空が哭いている」「ひとは優しさをどこに棄ててきたのか」という歌詞から、東京の人々が経済よりも心の豊かさを求めるようになってきたのだと思うようになった。

 地方の時代が声高に叫ばれていた昭和60年代前後、爆発的に売れた吉幾三の歌「俺ら東京さ行ぐだ」は、時代に逆行するような歌詞を並べ立てていた。「テレビもねぇ、ラジオもねぇ」「ピアノもねぇ、バーもねぇ」等々と。自分の田舎を散々けなし、東京を目指そうとするこの歌から、いつの時代でも若者たちは東京への思いを変わらず持ち続けているのだということを、あらためて知ることができた。

 最近はどうか。ネットで「TОKYО」という歌を見つけた。家入レオという歌手の歌だった。「生き馬の目を抜く街」「無残な東京、染まりたくないが憧れがある・・」という歌詞があり、都会暮らしを捨てきれない若者たちの、悲痛な孤独感を訴えているように思えた。

 作詞家は時代を情念でからめとりながら東京を表現してきたが、その実像はかけ離れたものであることは言うまでもない。一見すると効率性や合理性を極めた空間に見える東京だが、内実は溢れんばかりの人間たちが練(ねり)固まり、魔物が右往左往しているようなおぞましい空間のように思えなくもない。

 お金に余裕のない生活者にとっては、「東京砂漠」は今も変らないのではないか。