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【街景寸考】「堂々とした振り」のこと
Date:2018年10月24日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
最近恥ずかしいと思ったこと。野球の試合でランナーを進めるためのバッティングをすべきところを、いきなり一球目からバットを強振してボテボテの内野ゴロでアウトになったとき。正面から近づいて来る人が自分の方に向かって「ヤー」と声をかけたので、それが誰だか分からないま「ヨーッ」と手をあげて応えたら、実はその人は自分の後方にいる人に声をかけていたということに気づいたとき。
もう一つある。来訪者が手にした紙袋を見て、てっきり我が家への贈り物だと早合点し、「いぁ、どうもすみませんね」と礼を言ってしまった後、来訪者の目が急に泳ぎ出したのを見たときも恥ずかしさで居たたまれなかった。これらの失敗は、しばらくは恥ずかしい思いをしても、世間様から眉をひそめられるほどのことではないので、後々まで心のしこりとなって尾を引くようなことはない。
わたしの場合、子ども時代に経験した恥ずかしい思いも、今となっては懐かしい思い出として記憶に残っているだけである。例えば、上級生の女の子と相撲を取って不甲斐なく負けたことや、畑の隅にある肥溜めに落ちてヘソの高さまでクソだらけになってしまったことなどだ。ラジオ体操で跳躍のたびに「ぷっ、ぷっ、ぷっ」と屁が勝手に出たときは、死ぬほど恥ずかしい思いをしたものだが、今となっては笑い話でしかない。
ところがこのような恥ずかしさも人によっては、その恥ずかしい思いを引き摺ったまま人生を送ることもある。そうした影響により自分の考えや行動までが委縮し、人前で自分の意見を思うように言えなくなったり、自分のやりたいことに前向きになれなかったりする例もある。
思えばわたしもまだ若かった頃、こうしたトラウマのようになった恥ずかしい思いを抱えていたことがあった。そして、こうした思いから解放されたいと思い、解放されて本来の自分らしさを発揮したいと思い悩んでいたことがあった。そしてそのためには、できる限り前だけを向いて行こうと自分に言い聞かせていたが、思うようにはいかなかった。
20代後半のある日、こうした思いに対する解決策がたまたま浮かんできた。堂々とした振りをすればいいということだった。例えば、膝のところが破れているズボンをはいていたときには、10代の頃までは恥ずかしくて周りの目をひどく気にしていたのだが、堂々としてみることで周囲の好奇の目を跳ね返すことができるような思いに至ったのだ。
更に、この「堂々」を色々な場面で実践することで、自分が抱えてきた様々な羞恥心から解き放たれるような気がしてきた。堂々とした振りをすることで、自分の内側から何かしらの力が湧き、その力が自分に勇気を与えてくれる気がしてきたのだ。
もっともこのことは、「人間として恥ずべき行為に対しては、自らその恥を知らなければならない」という話とは、別の話である。