【街景寸考】「大きな後悔」のこと

 Date:2018年11月07日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 亡き母が旧満州(現在の中国東北部)からの引揚者であることを知ったのは、小学校高学年の頃だった。知ったとは言っても、母が旧満州にいたということや、終戦後は博多港に引き揚げてきたということしか知らなかった。冬の凍てつく日にわたしが寒そうにしていると、「なんが寒いかね。満州の寒さはこんなもんじゃなかったよ」と言っていた母の言葉の端々に、そのことを窺い知ることができた。

 わたしが高校生になった頃から、母はときどき独り言のように旧満州での具体的な体験を話すようになった。話はいつも短めで断片的だったので、もっと詳しく聴きたいと思うこともあったが、わたしはあえて聴くようなことはしなかった。そのようしたのは、母への配慮からだった。

 というのは、母の旧満州での詳細な体験を知ろうとすれば、引き揚げの途中で2歳の長女を栄養失調で亡くしたことや、引き揚げてから3年後に2歳の長男を事故で亡くしたこと、更にはわたしの出生後まもなく父と別れたことなど、母親としての辛い過去まで思い起こさせることになってはいけないという配慮だった。

 母の旧満州での断片的な話は以下のようなものだった。新京(現在の長春)にあった満州国政府の経済部機械工業課でタイピストをしていたこと、近所にいた満漢人がみな良い人だったこと、水を撒けば直ぐに凍ってスケートができたこと、ソ連兵による強姦を恐れて若い女性たちが髪を短く切っていたこと、引き揚げ船に乗るまでは苦労の連続だったこと。

 当時、こうした断片的な話を拾い集めながら、旧満州にいた頃の母を想像してみたが、楽しいこともあれば辛いこともあるという誰もが大なり小なり歩んできた人生のように思え、そんなに特別な体験を潜りぬけてきたというふうには夢にも思ったことはなかった。

 ところが母の晩年にかけて、わたしは母の旧満州での体験が特別のものだったということを知るようになった。そして、知れば知るほど大きな後悔の念を覚えた。関東軍が軍事力をもって満州国を建国したことや、その関東軍を中心に満州で略奪などの蛮行を行ってきたこと、泣く子も黙ると言われた関東軍が、ソ連軍の攻撃を逃れて一般市民や開拓団民を置き去りにしたまま我先に逃げたということ、ソ連兵や満漢人の一部が暴徒化して収奪、強姦、殺戮などを日本人居留民に行ったということ、引き揚げ難民としてハルビンで食うや食わずの収容所生活を強いられ、同じ難民が毎日のように餓死をしていたということ、等々。

 わたしの大きな後悔とは、こうした時代の渦中に母がいたということを知らなすぎたということであり、もっと満州であったことを母に聴き、辛かった思いを少しでも共有すべきだったということであり、もっと親孝行をしておくべきだったということである。

 それにしても、建国後わずか13年間で消滅した満州国とは、日本人にとって一体何だったのか。これこそが日本国にとって、大きな後悔ではなかったのではないか。